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書評『決断できない日本』

書評『決断できない日本』

決断できない日本

著者:ケビン・メア
出版社: 文藝春秋
発売日: 2011/8/18

自分の価値観に従わない者、あるいは自分の職務遂行に対立する相手はすべて切って捨てる偏狭な、そして尊大な、そして明らかに差別的な精神構造の持ち主が持ち前の狡猾さで仕上げた本書は、外国人とりわけ欧米人から批判的な日本人論を浴びせらることに自虐的喜びを感じる磐石な読者層をターゲットに成功した。とりわけ「沖縄はゆすりの名人」報道の自己弁護を周到に刷り込ませ、しかしながら第一章では東日本大震災で被災した東北地方の人々に代表される「耐える」日本人を誉めそやし、第三章では北朝鮮拉致被害者の肩を持ち、極めつけ最終の第七章では日本人が本来持っていたサムライ文化を礼賛する計算高さは見習わなければならない。

偏狭な心の持ち主は自分の偏狭さにまったく鈍感だ。それは例えば次の引用に現れている。

アメリカ国務省では、海外に研修に行く学生たちに対するレクチャーはごく当然のこととして行われてきました。問題となったブリーフィングは東アジア・太平洋局のカート・キャンベル次官補から頼まれました。その時点では彼らを普通の学生だと思っていましたが、共同通信の記事が出た後に調べてみると、実は彼らは反基地グループに関わっていたことが分かりました。いま考えれば大変うかつだったと思います。


頁をめくると、学生たち一行が辺野古のキャンプ・シュワブ基地のフェンスに掲げた横断幕の写真が「反基地グループに関わっていたこと」の「決定的証拠」として掲載されている。

メア氏の論理によれば、辺野古の基地反対運動は彼の職務である米軍政策に対する「妨害行為」以外のなにものでもなく、国家権力=暴力を正当に行使し排除すべき瑣末な営みである。それを彼は「反基地運動」と名指し、国家権力に反する不穏分子であるとみなす。実際には、それが平和と自然そして控えめな生活を守るための正当な活動であるなどとは決して認めようとしない。

最も卑劣なのは、平和を求めるこころと社会の矛盾を感じた動機から現場に立ち寄っただけの学生たちを、まるで犯罪者であるかのように扱っていることだ。そしてその態度は、米軍基地に反対する沖縄の人々全般に向けられていることはいうまでもない。ちなみに、北部訓練場「過半の返還」に伴う東村高江区をとりかこむヘリパッド建設をめぐる座り込み運動を、メア氏がまさしく「妨害行為」と表現していることは、同問題で現在係争中の通行妨害禁止訴訟において原告側(沖縄防衛局)が被告(座り込みメンバー)の表現活動に対して当てる言葉と一致しているが、それこそ「日米同盟」なるものの浅薄な証しなのだろう。

なにはともあれまったくもって見事なヒールぶりである。本書の売れ行きに気を良くしたメア氏の次なるアクションは、年末の格闘技イベントで華々しくデビューすることらしい。リングネームは「Master of Manipulation(ゆすりの名人)ケビン・ザ・ナイトメア」だとか。歓声こだまする入場シーンでは、熱いコーヒーをぶっかけられないように気をつけてほしいものだ。

(西脇尚人 2011/9/24)




書評『沖縄 アリは象に挑む』

書評『沖縄 アリは象に挑む』

沖縄アリは象に挑む

由井晶子著
七つ森書館
定価:1,800円+税/発行年月:2011年06月
A5判/並製/256ページ

私自身が、選挙権というのを持ってから行かなくては!と自分の権利を意識したはじめての大きな選挙、1998年の沖縄県知事選からアリは沖縄だけじゃなかったんだ!と沖縄県民が知った、3月の東日本大震災及び原発事故の直後までがまとめられたのがこの本「沖縄 アリは象に挑む」です。

この本は今までの基地問題の本とは違い、冷静な視点・それを時系列でまとめられているからなのでしょうか?こちらもあまり熱くなりすぎず、忘れていたり絡まっていた記憶が解きほぐされていくような感覚で読み進める事ができました。

その13年前の選挙で敗れてしまった大田氏をはじめ 歴代沖縄県知事、各市町村(特に 宜野湾市、名護市)の苦悩の様子。これまでは何でそういう事に応じたのだろう?と否定的な所しか見えてこなかったのが実はその裏で彼らも精一杯日本政府やアメリカに抵抗し主張し続けてきてくれていた事を知る事ができました。

本当にこの13,4年というのは沖縄が日本に(アリが象に)一生懸命くらいついて来た年月だったんだなと・・・・・・その間にも米兵による様々な事件・事故が起こり普天間と辺野古で揺さぶられ続け、アメとムチの間を揺れ動いてきたのですね。その結果が現在の普天間基地移設問題の膠着という現状なのだと思います。

最後に、この本の表紙を飾る色鮮やかな紅型に触れたいと思います。照屋勇賢「結い You-I」と題されるこの作品。よく見るとそこには飛行機とジュゴンが描かれています。

この飛行機は人を楽しませる為のものでしょうか?それとも・・・・・・

このジュゴンたちは幸せなのでしょうか?それとも・・・・・・

この本を読んだ後もう一度表紙を眺めてみるとそう問われているような気がするのは私だけでしょうか?

(多田明日香 Book Cafe Bookish オーナー 2011/9/17)

書評『薩摩侵攻400年/未来への羅針盤』

書評『薩摩侵攻400年/未来への羅針盤』

薩摩侵攻400年

琉球新報社
980円(933円+税)

 本書を一読して印象に残るのは、日本史で言えば江戸時代初期に当たる400年前の出来事に対する、意識的な距離感の近さです。そしてその理由を考えてみると、この史実を「過去の事」と出来ない沖縄の現状に思い当たります。

 それは直接的には、太平洋戦争後のアメリカ支配下における米軍基地の集中と、それが本土復帰後も撤去される事なく存在している事実、そして、それらの事が「ヤマト支配」を受け入れる事によって、日本の国家戦略の中で受けて来た被害であると捉えられているからでしょう。「鹿児島出身だと知った沖縄のタクシー運転手から悪く言われた」というようなエピソードを見ても、そのような意識が賛否はともかくとして、沖縄の社会に広く浸透している事を感じさせます。

 その「ヤマト支配」をもう少し詳しく見るならば、本書で取り上げられた1609年の「薩摩侵攻」と、1879年の「琉球処分」という段階に分けられるのですが、まず本土の読者にとっては、そのような歴史観は江戸時代、明治時代、というような時代区分に見られる、教科書的に整理された日本史観(それは歴史を「過去の事」と見させる一因になっているように思います。)を揺るがせるものとして、興味深いものであると思います。

 そのような日本史観を解体しうる史観が沖縄の地で育まれて来た事は、この薩摩侵攻の経路として取り上げられた鹿児島~奄美諸島へと連続する各地域にとっても、「日本史」を脱した地域史の掘り起こしを活性化するための、意識的な拠り所になっていることが本書から伝わって来ます。そして、その視点は中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなどを通じて世界に広げていけるものと思われます。それが、『羅針盤』という題名が掲げられた所以なのでしょう。

 その上で、そのように現実社会との闘いの中で必然的に育まれて来た沖縄の歴史観を、もういちど詳細に検討し直す、というのが本書のもうひとつの大きな意図なのだろうと思います。「薩摩侵攻」を一方的な侵略ではなく琉球、日本、そして中国(明)などの関わる外交の中で捉えなおす、そのような再考の例は、『琉日戦争一六〇九』(上里隆史・著)などがありますが、どんなに客観性を保とうとも個人によって書かれた歴史というのは、その個人の寄って立つ社会による影響を免れないように思います。その点において、本書が採用しているバラエティに富んだ地域・立場の論者による“多視点の語り”の持つ意義は大きいと思います。

 琉球が徹底抗戦の方針を取らず、早々に講和の道を選んだのは、奄美地方の割譲によって自国の独立が保てるという目算があったのではないか、というような指摘は「支配者としての琉球王国」という新たな視点をこの歴史観にプラスしてくれることでしょう。

 それと共に、本書を読んでもうひとつ気になったことに、この「薩摩侵攻」についての鹿児島と沖縄の意識に大きな開きがあること、それは「日本」と沖縄の意識の差と言ってもよいのでしょうが、侵攻した側がよりすぐにその事を忘れてしまおうとする傾向にあること、それは「責める側」「支配する側」の大義名分というのが、歴史的な視点から見るときにいかに脆いものであるか、ということをひとつ大きな問題提議として、わたしたちに突きつけているような気がします。

(海津研 美術・アニメーション作家 2011/9/10)

沖縄本レビュー(書評)執筆募集(2011年9月)

【沖縄本レビュー(書評)執筆募集について】

・下記の沖縄本リストは1ヶ月1回をめどに新しい書籍をアップしていきます。
・掲載されている沖縄本の書評執筆をご希望される方は、書籍名を明記の上、 情報募集投稿フォームに必要事項を記入し、OAM編集部あてに送信下さい。
・書籍をご郵送の上、ご執筆いただいた書評をOAMサイト内でご紹介致します。
・原稿の締め切りはご郵送後約3週間、分量は約1000字が目処です。原稿料は現金でのお支払いをせず、書評書籍の献本をもって代えさせていただきます。
・お一人様一回につき一冊とさせていただきます。複数のご応募はご遠慮下さい。
<応募終了>の表示がある書籍については既に書評執筆者が決定しておりますので、あしからずご了承下さい。

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書評『現代沖縄文学作品選』

書評『現代沖縄文学作品選』

現代沖縄文学作品選

川村湊・選
安達征一郎、大城貞俊、大城立裕、崎山麻夫、崎山多美、長堂英吉、又吉栄喜、目取真俊、山入端信子、山之口獏・著
講談社文芸文庫 1500円+税

行間から立ち昇る、湿度と潮の匂い

那覇空港に到着した飛行機から降り立つ時に感じる、あの暑熱を帯びた、むわっとした湿気と、その後にやってくる、鼻腔の奥をくすぐるかすかな潮の匂い。本書のページを繰りながら最初に思い起こされたのは、まさにその感覚だった。

沖縄に何度も足を運ぶと、マリンブルーの美しい海とか、癒しの島だとか、観光地としての売り文句では回収できないオキナワの表情が、嫌でも見えてくるものだ。

例えばそれは、リゾート計画の頓挫で醜い姿をさらす廃墟、基地建設に体を張って抵抗する人々、今ではうらぶれた歓楽街、などであるだろう。あるいは、観光客外向けのホスピタリティに隠された、ヤマトに対する嫌悪の感情や、他所者への用心深さであるかもしれない。

本書に編まれた、沖縄の現代文学者の手になる十篇の小説は、どれもがまとわりつく暑さと湿度を帯びている。まとわりつく、と述べたが、それは文字通り、振り払おうともがいても執拗に絡みついてくる重苦しさであり、沖縄が背負っているつらさ、かなしみ、行き場のなさの謂いである。

「鱶(ふか)に曳きずられて沖へ」(安達征一郎)、「棒兵隊」(大城立裕)からは、力に翻弄される沖縄人のさけびが聞こえてくるようだ。「軍鶏(タウチー)」(目取真俊)ではカタルシスも用意されているが、しかし出口があるわけではない。

一方、「見えないマチからションカネーが」(崎山多美)、「鬼火」(山入端信子)は、まさに「女語り」による沖縄だ。閉塞の中でもまたたく母性、包摂する力。それは闇の濃さと対をなし、時に残酷に、時に絡み合いながら続く。男性の作者による女性視点の「K共同墓地死亡者名簿」(大城貞俊)、「伊佐浜心中」(長堂英吉)でも、そのことは同様だろう。

四方を海に囲まれた暑熱の島で、草が生い茂り、木々が肉厚の葉を広げるように、人々は生を営む。がしかし沖縄は同時に、今なお「力」に組み敷かれた島でもある。行間からは、空や海の蒼さではなくあの湿り気――まさに「カーニバル闘牛大会」(又吉栄喜)で描かれた、陽炎の中にたたずむ沖縄人たちの息遣い、が立ち昇るのだ。

ヤマトの言葉で書かれたウチナーの語りを、ヤマトの私が読む。そこには不可避的に緊張が生まれる。けれども私は、本書を繰ることのを止めることができない。那覇空港のタラップを踏んだ時に暑熱と湿気が伝えた「オキナワ」の感触の意味を、十篇の語りは、より深く私に教えてくれるのである。

(2011/9/3 斉藤円華 ジャーナリスト)
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