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書評『琉球からみた世界史』

書評『琉球からみた世界史』

琉球からみた世界史

著者:村井章介 三谷 博=編
山川出版社
価格:3,360円(本体3,200円)

デパートや司法書士事務所やらに「琉球からみた世界史」をバックに忍ばせ、連れ歩く。コーヒーカップを持つ手が止まり、指で文字をゆっくりと追う。呑み込めない。そりゃそうだろうよ、論文だもの。超超ドとも言えないほどの素人にゃわからない!

 と、ギブアップをしようか。わたしはしない。わからんが、読むのだ、と力んだ。軽い気持ちで読んだらいけません。ひとつひとつに研究者の膨大で誠実な研究成果の言葉と資料と史料が盛り込まれています。

 しかし、わたし流で読みます。傲慢ではなく、わたしの極極限られた読み方で。研究者の方々や専門家の方々がこの拙文を読むことはないと思いますが、のっけから申し訳ありませんでした、とご挨拶をします。ふざけてはいません。努力をしたのです、わからないなりに。昔わくわくして読んだ探偵小説のように。

 1章は、考古学者の立場から特に「硫黄島」を中心に出土した遺物から奄美群島の島嶼海域、境界海域を考察したものである。出土した遺物から薩南諸島における交易活動の一端を垣間見ることができるのではないか、と述べている。

 2章は「古琉球をめぐる冊封関係と海域交流 村井章介」。「歴代宝案」に収められた外交文書から海域の国王間のやりとり、そして一時期南九州の領主層との外交を通じ、積極的に君臣関係を築こうとしたことを述べている。尚真王時代には琉球国は、奄美群島を内国化させ、先島諸島にもその勢力と権威を高めていた。しかし、事態は反転する。戦国大名島津氏は、代替わりをし、領国の統一によって、九州の覇者となった。その結果、琉球貿易に「当家の印版をもたない不法行為は取り締まる」と琉球に申し入れを行っている。それに反した場合には薩摩の武力介入を覚悟しなければならなかった。

 3章は、久米島のおもろの世界を通して、久米島と琉球王府の関係を明らかにする。「おもろそうし」巻1と巻2の間に「島津侵攻」があり、編纂事業に影響を及ぼしているとされているが、島津の関与については具体的に示す手がかりはないらしい。

 「おもろそうし」は、久米島が首里王府から独立した存在であることを示唆する。また、久米島が大和との交流が盛んであったこと、大和から東南アジア諸国に出かける船の足がかりであった喜屋武、摩文仁とも密接であったこと、このことは久米島もまた中国、東南アジア交易に何らかの関係があったことを推察させるとしている。

 4章、ラタナコーシン朝初期シャムにみる「朝貢」と地域秩序」。伊藤博文が、シャムはまるで琉球のようだ、といったそうだ。

 シャムは、清朝の朝貢国であったが、その中国との関係を模すように周辺諸国の頂点に立ち、変容する中国と西洋との関係に対して、近隣周辺を束ね、再編することによって対応しようとする、という動きにみえた。というのは、シャムは、周辺諸国例えば、ベトナムやカンボジアに朝貢のようなものを義務づけ、カンボジアは、「シャムは父なる国、ベトナム母なる国」という両属の関係であるとしている。この重層的な関係をして、伊藤博文に「まるで琉球のようだ」と言わしめたことなのか定かではない、としている。しかし、シャムの周辺諸国との朝貢再編、新たなる国際関係への対応を模索しようとした動きが、伊藤の認識をはるかに超えていたのでは、と結ぶ。

 5章、サブタイトルは「皇帝と話をした琉球人」。移動がほぼ不可能な時代に北京、福州、琉球、薩摩、江戸を琉球人が複数の人数で定期的に頻繁に移動していたという事実を述べる。この国際的な経験が琉球王国に蓄積・還元され、中国、日本とも異なる琉球の固有性を生み出すことに寄与したのではないか、という。

 6章、琉球と朝鮮の儒教。それぞれの特色を述べられている。琉球の儒教は、土着文化に溶け込んでいる。儒教を実践しているのかわからないくらいに日常に潜む儒教的精神、文化を見つけ出すことも面白いかもしれない。

 7章、ペリー艦隊の琉球来航。日本開国の前にペルー艦隊は、琉球に来た。なんだか現在を見るような気もする。「琉球は、ごまかしや外交上の裏切り行為にかけては彼ら(琉球)の上にでるものはいない、・・・」。これって「ゆすり、たかり、ゴヤ―ツクレナイ、オキナワ人」に似ていない?当時の米国海軍の「水兵」は、規律が乱れ、琉球の女性に対し、乱暴狼藉を繰り返し、民家に侵入、しかし、「水兵」の身柄は拘束されず、公式の謝罪もなかったという。鼻が膨らんできたぞ。怒りの鼻息!日本開国の正史には記していない数々の米軍の不祥事は、琉球の記録には残されている。小さなアリが「歴史の教訓」を踏まえ、いかに政治・外交的知略を発揮していくかが未来の沖縄を切り拓く重要な課題であると結んでいる。

 8章、世界史からみた琉球処分―「近代」の定義をまじめに考える。やっと近代に来た。でもね、近代の定義を「琉球処分」という切り口で定義するのが目的なんだよね。文化・思想の側面からの近代、国家・政治体制の問題として考える場合の近代。さらには、経済・市場構造に着目した近代。キンダイが、さまざまな色をしたタイヤキのように目の前に並べられて、食べようにも中身のあんこがわからないから手につかない。

 筆者は、国民国家論からの近代を考えるとすれば、「琉球処分」はナショナリズムの論理で遂行されたのか、どうかを考えれば、近代が見えてこないかと論じる。「琉球処分」を東アジア世界で初めて国境線を住民の人種や民族によって基礎づける近代ナショナリズムが発現した事件として捉えることは誤りであるとする。史料からみえることは琉球「国王」の出自が問題であって、住民レベルの民族学的な「日琉同祖論」は無関係なのである、という。史料が示していることは、「国民」ではなく「国王」が国家全体を表す「前近代的」な論理である。しかし、「琉球処分」に使用した論理は、徴税権取得という「土地」支配の論理であり、国民の均質性や民族の同一性というナショナリズムではない、と結論する。

 「琉球処分」は、朝貢体制を破壊したのか?つまり、「前近代」から「近代」に移行できたか?かな?「『日本』の開国は沖縄の『鎖国』化であった」と朝貢システム論を論ずる研究者は述べているという。「琉球処分」以前の琉球の両属問題は清国をはじめ西洋各国にも周知の事実であったが、「沖縄県は日本の一部である」という日本の解釈のみが日琉関係の「正しい」説明であるという一元的認識の要求がこの「琉球処分」である。「近代」が意味の多元性を前提にした秩序から解釈の一元性を要求する秩序への転換ならばこの「琉球処分」は近代のファンファーレになったのだろうか?

 つまり、鎖国にあった日本は、清国などに開いた琉球国を通して(利用して)、世界にデビューしていった?琉球の黒糖やらを食べつくし、きらびやかな異国情緒あふれる文化を利用して、世界に打って出たのかな?あの時代でも限られた交通によって、世界に移動した一握りの琉球人は、琉球の目を持って、世界を見、記録に残した。そこから世界を感じた、信長や伊達正宗が世界に夢見たように、と思うのだ。

世界のウチナーンチュ大会が今年は盛大に開かれたようだ。ニュースでしか見なかった。県立博物館に出かけ移民資料展を見た。実は、親せきにもブラジルやペルー、ボリビアに移住した人がいるらしい。ハワイに移住したおばさんが帰ってきたので何年かぶりに会った。英語訛りの言葉を時々発し、にこにこと座っている。

琉球から世界は近いかもしれない。びりびり世界に反応する青い空と海。琉球から沖縄、今もこの地は、(わたしにとって)世界の中心である。この地に立って世界を見るのである。

(2011/10/22 ぺん・りゅう)

               

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