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書評『薩摩侵攻400年/未来への羅針盤』

書評『薩摩侵攻400年/未来への羅針盤』

薩摩侵攻400年

琉球新報社
980円(933円+税)

 本書を一読して印象に残るのは、日本史で言えば江戸時代初期に当たる400年前の出来事に対する、意識的な距離感の近さです。そしてその理由を考えてみると、この史実を「過去の事」と出来ない沖縄の現状に思い当たります。

 それは直接的には、太平洋戦争後のアメリカ支配下における米軍基地の集中と、それが本土復帰後も撤去される事なく存在している事実、そして、それらの事が「ヤマト支配」を受け入れる事によって、日本の国家戦略の中で受けて来た被害であると捉えられているからでしょう。「鹿児島出身だと知った沖縄のタクシー運転手から悪く言われた」というようなエピソードを見ても、そのような意識が賛否はともかくとして、沖縄の社会に広く浸透している事を感じさせます。

 その「ヤマト支配」をもう少し詳しく見るならば、本書で取り上げられた1609年の「薩摩侵攻」と、1879年の「琉球処分」という段階に分けられるのですが、まず本土の読者にとっては、そのような歴史観は江戸時代、明治時代、というような時代区分に見られる、教科書的に整理された日本史観(それは歴史を「過去の事」と見させる一因になっているように思います。)を揺るがせるものとして、興味深いものであると思います。

 そのような日本史観を解体しうる史観が沖縄の地で育まれて来た事は、この薩摩侵攻の経路として取り上げられた鹿児島~奄美諸島へと連続する各地域にとっても、「日本史」を脱した地域史の掘り起こしを活性化するための、意識的な拠り所になっていることが本書から伝わって来ます。そして、その視点は中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなどを通じて世界に広げていけるものと思われます。それが、『羅針盤』という題名が掲げられた所以なのでしょう。

 その上で、そのように現実社会との闘いの中で必然的に育まれて来た沖縄の歴史観を、もういちど詳細に検討し直す、というのが本書のもうひとつの大きな意図なのだろうと思います。「薩摩侵攻」を一方的な侵略ではなく琉球、日本、そして中国(明)などの関わる外交の中で捉えなおす、そのような再考の例は、『琉日戦争一六〇九』(上里隆史・著)などがありますが、どんなに客観性を保とうとも個人によって書かれた歴史というのは、その個人の寄って立つ社会による影響を免れないように思います。その点において、本書が採用しているバラエティに富んだ地域・立場の論者による“多視点の語り”の持つ意義は大きいと思います。

 琉球が徹底抗戦の方針を取らず、早々に講和の道を選んだのは、奄美地方の割譲によって自国の独立が保てるという目算があったのではないか、というような指摘は「支配者としての琉球王国」という新たな視点をこの歴史観にプラスしてくれることでしょう。

 それと共に、本書を読んでもうひとつ気になったことに、この「薩摩侵攻」についての鹿児島と沖縄の意識に大きな開きがあること、それは「日本」と沖縄の意識の差と言ってもよいのでしょうが、侵攻した側がよりすぐにその事を忘れてしまおうとする傾向にあること、それは「責める側」「支配する側」の大義名分というのが、歴史的な視点から見るときにいかに脆いものであるか、ということをひとつ大きな問題提議として、わたしたちに突きつけているような気がします。

(海津研 美術・アニメーション作家 2011/9/10)

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