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『久高オデッセイ―遥かなる記録の旅―』

『久高オデッセイ―遥かなる記録の旅―』

久高オデッセイ

須藤義人著
晃洋書房
2011年4月
2940円


民俗学や映像記録の専門家が書評をすべき本かもしれない。私ごときなにも知らないものがこの本について語ることを躊躇した。私は、これらの専門の知識は持ち合わせていないので大変申し訳なく、しかし読んでいて、もどかしいほどこの語りに引き寄せられていった。先を読み急ぎすぎて、つんのめっては前の頁を読み返したりと・・・。

私の父方の祖先はノロの家系で、また母方の祖母のお姑さんもノロになるべき女性だったらしい。廃藩置県を経て、明治初頭の頃に首里から移り住んだという。

母方の伯父の家の向かいには大きな瓦屋根の「ヌゥンドゥンチ」いわゆるノロの屋敷があった。石垣と福木に囲まれた親戚の家だった。数十年前に屋敷は人手に渡り、コンクリートの二階建てに変わった。だから、ノロについては無関心ではいられない。

「久高オデッセイ」は、久高島における神と神ンチュの交流を記録した映画監督大重潤一郎氏の姿とこの祭祀の記録を通して視える「Something Great」について熱く記している。民俗学、あるいは人類学、自然と人間についての文化論、日本人論を述べている。

記録は、琉球王府体制での信仰を司る「ノロ制度」の奇祭をおったものである。このノロの祭祀に荘厳な自然、「母性性=生命の営み」への原風景を視、それを写し取る作業であったのだろう。

首都圏で生まれ育ったものが、沖縄、特に久高島に「原日本人の魂」を視るということは都会を十分に知りつくしているから、土あるいは海に生きるもの、そしてその土地の本質を捉えることができたのではないだろうか。沖縄に生まれ育った「土着」のものはこの土と空気にどっぷりとつかっているから「魂」もなにも感じない。なぜなら自分の中にそれを知らないうちに持っているから、だから認識できない。「なんでかね?」「だからよ!」の世界なのだから。論理的ではない感覚で「こと」がすまされるから。個人と個人の距離をはっきりと線引きできることが「都会人」であると思うが、親戚だらけの沖縄人「土着の人」は他人という個人が存在しない。「あなた」は「わたし」であって、「自然」も「わたし」なのである。つまり、いまだ西洋の論理が理解できないのである。明治は、いまだこず、廃藩置県をされたことも理解できない。琉球人のままである。

物やお金が豊かになった日本は、それと引き換えに「何か」を失ってきた。昭和を懐かしがるだけではなく、原日本人に立ち返るべきときがいまである。日本人は、戦後を振り返ることが十分にできなかったから、震災後に過去を振り返るべきである。つながりや絆が熱望されているこのときにこそ、「久高オデッセイ」をよく読み、ここに島嶼である日本の立ち位置を確認し踏みしめるべきである。自然に溶け込み、全ての生き物とともに自然、大いなる神(Something Great)の存在を畏怖し、祈ること、五感そして第六感を取り返すことである。ということを述べている、と解釈したのだがいかがだろうか。

ニラーハラー(ニライカナイ)から生命の源(種)が流れきて、またそこへ帰るという。海の向こうが私たちのふるさとである。

人類の最初は、遥か南のアフリカにあるらしい。そこの森の木から地面に降り、歩き始めたことから西洋やアジアに人類がひろがったという。人類全てのふるさとはアフリカ。ニライカナイの向こうである。

日本人は、琉球を南に下り、アジアに向かい、そして地球を一周して、日本に戻ったほうがいい。一点から世界へ。そして世界から自分の立つ足元を見つめ、踏み固めるべきである、とこの本を読んで思うのである。

久高島へは「グスクツアー」でいったことがある。島の踏み込めない場所は見ることはできなかった。島に暮し、溶け込んでとり続けた記録を見てみたいと思う。

(ぺん・りゅう 2011/5/28)

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