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書評『沖縄 空白の1年』

書評『沖縄 空白の1年』

世界史のなかの中国

川平成雄著 吉川弘文館
出版年月日 2011/01/21
判型・ページ数 A5・320ページ
定価 本体2,800円+税

本書は太平洋戦争後、アメリカ占領下におかれた沖縄の「世代わり」の間の経過をその主題としているが、その冒頭で問われるのは、まず「沖縄戦終結はいつか?」ということである。

現在沖縄県が「慰霊の日」と指定している6月23日は、日本の沖縄守備軍司令官が自決したとされる日であるが、その際に戦闘終結を宣言してはいない事、また久米島ではその後も2ヶ月に渡って交戦が行われた事もあり、果たして戦争の終結としてふさわしい節目であろうかという疑問が残る。そして、日本の戦争の終結を表す日付としては、「玉音放送」の8月15日、ミズーリ号甲板上で降伏文書に調印した9月2日があり、日本の南西諸島守備軍が正式に降伏文書に調印したのは9月6日であるという。

しかしこれは、あくまで国家間で取り決められる決まり事であり、沖縄の住民一人一人にとっては、米軍の捕虜となって戦場から保護されたその日が、その人にとっての戦後の始まりであると主張する。その考え方は、国家が行う戦争と住民の関係から、国家と住民との関係が見えてくる、という意味で、本書の重要な柱になっていると言えるだろう。

その後に続く部分では、アメリカ占領下での具体的な復興の過程が示される。ケラマ諸島への上陸と同時に占領政策をスタートさせたアメリカ軍によって、民間人が次々と収容所に保護され、まず必要とされる食料と住まいが与えられる。それに占領下での行政機関である沖縄諮詢会の設置や新聞の発行、貨幣経済の復活や、文化的な復興などが続いて行く。それは一面では被占領者の生命と自主性を尊重した政策で、歌や踊り、壺屋の陶や泡盛の復興など本書でもそのエピソードが取り上げられ、美談として語り継がれるような事例もある。

しかしその一方でアメリカ政府が沖縄の経済的自立を急いだのは、大戦で膨らんだ自国の軍事費支出による経済的負担を少しでも軽減するため、という指摘も見逃せない。

そして、与那国から台湾へ抜けるルートなどに代表される密貿易を断固として取り締まりながら、アメリカは朝鮮戦争へ突入、さらに中国共産党やソ連など共産圏への牽制を強めていき、「銃剣とブルドーザー」で基地の恒久化をはかる強権的な征服者として沖縄住民と対峙していく姿が語られるのである。

復興の過程の中で興味を惹くエピソードとして、基地と台風の関係性というのが挙げられる。3~6月に地上戦を戦ったアメリカ軍の設置した仮設の軍施設や収容所の建物が、10月に台風によって大きな被害を受けた。台風被害はその後数年続き、それはアメリカ軍に沖縄を主要基地として確保する意志を喪失させるほどのインパクトがあったというが、そのリスクを押してでも基地を設置する意義が見いだされたとき、その存在はより動かし難いものになって行ったと言える。

本書の中でとりわけ目を引いたのは、天皇制と憲法九条について書かれた章であり、沖縄での戦闘自体が日本の”国体”とその象徴としての天皇制をまもるための「捨て石」であった事、そして「日本人の大多数があの大戦を教訓として生まれたものだという極めて単純な理由で」支持している憲法九条を成立させているのは、沖縄に集中する基地であるという矛盾を通じて、未だに日本という国体の犠牲となり続けている沖縄に”戦後”はない、と結論づける。沖縄戦の開戦自体が国民の生命を第一に考えていない証拠であり、沖縄の切り離しは自国民の生命を平等に扱っていない証拠である。そこには本書冒頭に掲げられた、国と住民にとっての戦争終結の意味するものの違い、つまりは「戦争」を通じて浮かび上がってくる「国家」という管理システムの抱える問題が見えて来る。

本書の終盤部に、1995年米兵による少女暴行事件をきっかけに行われた、県民大会での高校生のスピーチが引用される。「基地がある故の苦悩から、私たちを解放して欲しい。今の沖縄は誰のものでもなく、沖縄の人たちのものだから。」ここに現れる「沖縄の人たち」は誰を指すのか。解放とはいかなる状態なのか。それを深く問いかける時、国家間の戦争による政治的空白期間を生き抜いて来た沖縄住民の体験を継承することは、私たちが国家に支配されない生き方を見つめ直す助けとなるのだろう。

(海津研 2011/5/1)

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