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書評『沖縄を聞く』

書評『沖縄を聞く』

沖縄を聞く


新城郁夫(著)みすず書房 (2010/12出版)
B6判・上製・237頁 2940円

どうすればこのテキストをこんなふうに読めるのだろうと半ばあきれつつ、同時にほんの束の間嫉妬し、結局のところその読みに圧倒される批評というものがたまにある。『沖縄を聞く』を書いた新城郁夫は、私の前にそのように到来した。明らかにその圧倒ぶりは、前作『到来する沖縄』までの、いや、2006年からの論考をまとめた初出を本書収録にあたり全面的に改稿するその直前までの著者自身をも不意打ちしたといえないだろうか。

その不意打ちについて(であると断言したい)、著者はあとがきで驚くほどの率直さでこう述べている。

《なにごとにつけ時間がかかり、ときとして、取り返しのつかぬ遅れを経て、大切なことに気づくということが、私には、ままある。と言うより、いつもいつも、そうなのである。沖縄を聞くという、最も切実な思考の契機もまた、決定的な遅れのなかで気づくにいたった。》

つまり、《取り返しのつかぬ遅れを経て、大切なことに気づ》いたがゆえに、初出を全面的に改稿したのだ。大切なこと、つまり《沖縄を聞くという、最も切実な思考》を《決定的な遅れのなかで》気づくことと、この直後に触れられる《かけがえのない大切な友を喪》ったことに因果関係があることを読みとることは容易い。しかし、そのことについてさも得意げに言及することほど破廉恥なことはないであろうがゆえにここでは触れない。

圧倒ぶりは唯一の書き下ろしである「第一章 受信される沖縄 ソクーロフ『太陽』」に提示される。ロシア人の映画監督が描いた敗戦間近の昭和天皇裕仁という2005年の異色作を、著者はどのように遅れながら読んだか。

映画冒頭での何気ないシーン。それは敗戦間近の御前会議に向う直前、裕仁がラジオをつけてくれと侍従長に声をかるところから始まる。聞こえてくるオキナワの壊滅的な最期を伝える音声。裕仁、手で払いのける仕草。消されるラジオ。裕仁にその日の予定を伝える侍従長・・・およそ110分の尺のなかで、オキナワが描かれることはそれ以外ない。ラジオの音声として発せされるだけの数秒が、そもそも「描かれる」といいうるかも怪しいが。

しかしながら著者は、裕仁の身振りを《身体の奇態な変異》と捉え、手で払いのけ消去される沖縄に敏感ならざるをえない。

《裕仁の命によっていったんは消去させられる沖縄は、消去という運動そのものを映画のなかに反転的に顕在化させ、その顕在化を通じて、均衡を保っているかのごとき日米軍事同盟の遠近法が、その実、見えざる沖縄という消失点によって構成されている関係をこそ明らかにしていくのである。~この背理的な作業を通じて、抹消された沖縄からこの映画を見ていく回路が開かれ、沖縄という抹消された視覚=死角において、ホモソーシャルな暴力装置として顕現する日米軍事同盟が孕む身体的欲望の政治力学を、その根底から問うていくことが可能となるはずである。》

つまりは一瞬のそぶりでかき消すからこそ(イッセー尾形の抑制的な「怪演」ぶりが目を瞠る)、その身振りを通じて逆照射されるのが《ホモソーシャルな暴力装置として》の日米軍事同盟、その脆弱ぶりであるという、冷や汗をかくようにワクワクさせる背理の謂いである。いうまでもないが、遠近法とは、あるはずのない虚構の消失点を設定することで初めて風景が「現実的」に見えてしまう倒錯をさす。

沖縄を聞くことの序章にして決定章が「受信される沖縄」であるならば、終章として送信されるのが「第七章 沖縄を聞く 大江健三郎『沖縄ノート』であろう。同書において、米軍政下の沖縄へ航路で向う若き大江は、その船内での「情熱」に関するエピソードを披露する。「僕」と船室を共同使用する「性的倒錯者」であるアメリカ人が、沖縄の少年たちを誘い込もうとする場面にカーテン越しに居合わせるという場面において。「僕」は沖縄の少年たちに警告を発するが、《かれらは僕の救助をもとめるのとはまったく逆に、僕の理解を拒む方言によって、お互いに情報を交換しあい、緊張をうながしあったのである。》

本土の者である「僕」は沖縄の少年たちに拒絶されたと捉えるが、そもそも彼らから拒絶の言葉が発せられた形跡はテキスト上に存在しない。その声は始めから奪われてしまっているのだ。著者は、それが大江にとって「日本人でないところの日本人」という主体を立ち上げようとするための《幻聴》であると見破る。《沖縄の欠如あるいは沖縄の不在をもってしか設立されない日本人という主体の矛盾がここに露呈している。》さらには、異性愛主義の本土の「僕」からみた「性的倒錯者」のアメリカ人、沖縄の少年という関係性がそもそも実体のないものであり、《欲望をこそ欲望する大江自身の内なる衝動》であるとまでいう。

だがここからが決定的に重要なことであるが、著者は大江のその《幻聴》が、逆説的に日米軍事同盟の基盤として作動するホモソーシャルな欲望とその解体の危機を暴き出すとし、むしろ積極的に評価している点にある。《このとき私たちに求められているのは、ひたすらに沖縄を聞くという大江の実践を学びつつ、大江が聞き取りあるいは聞き損じた沖縄を、今においてその蘇りのなかに聞き取っていくことであるはずである。》

あらかじめ消去された主体としての沖縄、そして日米軍事同盟という「現実の」絶望感において、ギリギリの、狂おしいまでの希望の原理がここにある。著者はそれを《取り返しのつかぬ遅れを経》たからこそ獲得したといえないか。後にノーベル文学賞を受賞する作家の1969年の『沖縄ノート』、その後に書かれた最初の長篇タイトルとの奇遇も併せつつ、新城は遅れることを模倣し、さらに厳粛かつ変態的に欲望していたのだといってしまおう。それが大切な友への喪の仕事の第一章でなくてなんであろう。

(西脇尚人 2011/02/19)
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