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書評 「柳田国男と琉球」

書評 「柳田国男と琉球」

再々画像「柳田国男と琉球」

酒井卯作(著) 森話社 (2010/12出版)
46判・上製・314頁 2,800円

現在、日本と沖縄との間には大きな意識的な溝が横たわっているように感じます。その沖縄はかつて、奄美諸島を含めて琉球王国という独立国家を形成しており、自然環境や人々の暮らしの上でも、独自の道を歩んで来たと言われます。その琉球が、日本という国家に従属させられる事により経験して来た苦渋がその溝を深くし、それは今も続いていると言えるのでしょう。
それでは、その「琉球」とは実際、どれほど日本と違うのだろうか?また似ているのだろうか?ということを、国家の関わる”大きな歴史”ではなく九州~奄美諸島~琉球諸島(沖縄・先島諸島)のそれぞれの岸辺に暮らす人々の暮らしから連続的に見つめてみて、捉え直してみよう、というのがこの本が出版された主旨だろうと思います。
この本の基になっているのは、1920~21年にかけて九州の東海岸から琉球の島々を巡った旅行について執筆され、1925年に出版された柳田國男の「海南小記」という紀行文なのですが、本書のあとがきによればこの本は「書店から姿を消して、古書店ですらこの本を探し出すのは難しい」といいます。確かに今、書店に行くと沖縄の地元の研究者によって書かれた琉球文化の本がたくさん出回っており、あえて86年も前に日本の学者のわずかな期間の滞在によって書かれた文化論に重きをおけないというのも一面ではうなずける事です。しかも「海南小記」は「ジュネーブの冬は寂しかった」と書き出されるそうなので、これだけでも一般庶民の目を背けさせるのには充分でしょう。
それでも本書において、あえてその日本を代表する民俗学者の著書である「海南小記」の復権が試みられたのには、その今の人には受け入れ難いと思われる部分が逆に、日本と琉球の関係性について何らかの光を投げかけてくれるのでは、という期待からだろうと思います。

本書の「小さな誤解」という章では、江戸文化の中で一種の”琉球ブーム”があったことが語られます。その代表的作品、曲亭馬琴「椿説弓張月」の中で琉球の歌が誤って引用されたことなどから、”言葉の壁”について書かれた章とも言えるでしょう。そしてそれを後に気づけば直す事が出来る「小さな誤解」とした上で、「我々の悲しまなければならぬ大きな誤解は、元を忘れるのが幸福に生きる手段、通説を批判せぬのが永遠の賢明と思っている事である」という「海南小記」の一節が引用されています。この言葉は、その後の時代に琉球の島々が巻き込まれて行く悲劇について考える時、さらに重く響きます。
それ以前の時代にも繰り返されて来た悲劇に付いて触れられているのが、九州南部の地で柳田が見た「今も現代の人が来て嘆く一団の墓」の記述です。この「現代」とは1920年のことで、そこには日清・日露戦争の戦死者の墓が「此ほども死んだかと驚く程」並んでいたと言います。そしてその墓の反対側の草むらには、西南の役で賊軍の立場に立って死んだ人たちの、対照的に小さな墓石が点在していたと言います。それがかつて琉球を武力によって制圧した薩摩藩の末裔であることを思う時、歴史の流れの複雑さが感じられます。

柳田が「海南小記」の冒頭に掲げたのは、甘藷(サツマイモ、リュウキュウイモ、からいも・・)の伝播の歴史でした。当時の尋常小学校の教科書がそれをいささか単純化しすぎていることを具体例を挙げて指摘し、またその伝わり方が、中央の権力者の目の届かぬ所で、人々の生活を一変させてしまうほど広く伝わったことが語られることによって、琉球や日本各地の文化がどこからどのように伝わったのかを探る「海南小記」の旅の目的が示されていると言えるでしょう。
それは、国家がつくり出す大きな境界を越えた、「見えない繋がり」を探す旅だったのではないでしょうか。

その一方で、「猪垣の行方」という章では、文明が進むに連れてそのような障壁が作られる事は不可避である、と捉えられているようにも思えます。かつて森の中で猪を捕らえ、食し、これと共存していた人々の生活が、外から農耕や畜産(移入種である豚)がもたらされることによって、猪垣という境界を森と人里の間に築かせてしまったと。しかしその一方で、その豚はもしかすると外からもたらされたのではなく、猪の飼いならされたものかも知れないとして、その境界を内部から疑おうという試みもなされているように思います。

現代の沖縄と日本との境界について考える時、奄美諸島の位置は重要に思われます。柳田の実際の旅の行程においても、奄美諸島は沖縄~先島を巡った後に、最後に訪れた場所となっているのも、その重要性を念頭においての事だったのかもしれません。奄美の加計呂麻島を訪れた部分にはわざわざ「国頭の土」と、沖縄本島との繋がりを示唆する章題が柳田によって付けられています。明治以前のお歯黒とハヅチ(いれずみ)の文化によって日本と区別されるという奄美諸島は、かつて琉球王国の一部でありながら、薩摩の直轄地となってからは、明治以後は鹿児島県の一部となり、太平洋戦争後には一足先に(1953年12月)日本に返還されるなど、沖縄以南の島々とは異なる歴史を辿って来ました。そのような外からの支配による影響によって、そこに生きる人々の暮らしの何が変わり、何が変わらなかったのか、そこに政治的な枠組みを越えて”琉球”をみつめる鍵が隠されているように思います。

本書の中で紹介されている「海南小記」の記述の中で、印象的なものの一つに、「琉球は白い色の貧しい所である」(「豆腐の話」の章)というのがあります。これは現代の沖縄の”白い砂浜”のようなリゾートのイメージからすると思わず「エッ?」と言ってしまいそうな所です。それに対しては著者も「琉球の主な町は、今は白一色の住宅に変わり、緑の色の方が少なくなった」とその80幾年の変化を記しているのですが、この違和感はむしろ、クリーム色の砂を見て「白」と言うような、現代の私たちの単純化した物の見方を浮き彫りにしているのではないでしょうか。それは、補正されることなく定着してしまった「大きな誤解」のひとつです。

”白い砂浜”が実際は様々な微細な色のグラデーションによって成り立っているように、琉球もまた大小様々な島々のつらなりの中にあります。そして、大きな島の声が小さな島の声を抑圧してしまうのは、琉球王国の内部の歴史でもあります。

そして柳田は一貫して”小さな島の声を届ける”ことに専念していたのだろうと思います。その意味において、特に印象的なのが、「久高の屁」という一章です。現代もなお”神の島”として知られる久高島に”屁”という語が付けられているのは一見不適切に思えます。そこで著者は屁が人間にとって大切な物でもあるというような民俗学の事例を並べながらこれを擁護しようとしているのですが、ここでの柳田の意図は、屁という生命活動のために致し方ない行為を、たった一度人前でしてしまった為に、王家を追われたという母親の尊厳を回復するために、理をもって王を諭すその息子の姿にこそ表れているのではないでしょうか。

そしてその姿には、戦後~現代の沖縄において抑圧者の不正に理をもって抗議する人々の姿が重なって見えて来るような気がするのですが、あるいはそれも「小さな誤解」なのでしょうか?

(海津研 2011/02/05)

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