twitter @oam0

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

書評『けーし風 第69号』

書評 『けーし風 第69号』

けーし風69号

出版社:新沖縄フォーラム刊行会議
サイズ:四六判/72ページ
発行年月日:2010年12月31日
500円(内税)

季刊誌『けーし風 第69号2010年12月』の特集は「県知事選挙をふりかえる」と題し、昨年11月の沖縄県知事選で惜しくも落選した伊波洋一前宜野湾市長へのインタビュー、平良識子那覇市議らを交えた座談会などの企画となっている。県知事選のほとぼりが醒めたタイミングでの伊波氏へインタビューを試みることは、沖縄の政治状況のこれまでとこれからを見据える意味で、つい忘れてしまいがちだが必ずやらねばならぬ作業である。理論派の伊波氏の主張は、選挙戦中の怒涛の時空間においてファーストに消費されるよりも、本紙のような丹念な試みのなかで読まれるほうが実は伝わり易いのではないかと、皮肉にも感じてしまった。

さて、好企画の特集もさることながら、やはり「追悼・屋嘉比収さん」について書く。文字通り、2010年9月30日に亡くなられた屋嘉比収(沖縄大学法経学部准教授・日本近現代思想史・沖縄学研究者)への追悼特集である。屋嘉比が本紙編集運営委員を務めていたことからすれば当然過ぎるが、十数名の関係者が寄せた追悼文を読むにつけ、他者との関係性を大切にした屋嘉比の「生きている空間」がモータルな制約などおかまいなしに現前しているのだと、ただただ打ちのめされる。

《地道に活動を続ける人々とつながりながら粘り強く思索の歩みを進める》(鳥山淳)、《人の話をさえぎるようなことはしない。批判したい話も最後まで聞き、笑顔でゆったりと切り返していた。》(與石正)。屋嘉比を直接知っている者であれば恐らく同じ印象になるであろうこれらの人物評が計らずも現していることを一言でいえば、「他者への応答性」となろう。

応答=response―resposibility=責任。応答することが責任を伴うことを体現した屋嘉比を評して、崔真碩(チェ・ジンソク)は書く。《屋嘉比さんは、私が知っている知識人の中で、誰よりも温厚で、それでいて、誰よりも怒りを抱いている方です。その温厚な人柄の内に秘めている激しい怒りを私はいつも肌で感じていました。…抱えきれないくらいの怒りは人を温厚にするのだろうか》。

《概念に凭れかかるな》。それは若き研究者(親川裕子・我部聖)が共通して語る、屋嘉比からの不断のメッセージである。恐らくこの言葉も性急に浴びせられるというよりは、相手の言葉を待ち、聞き、それについてしばし考え、ようやく発せられるということだったのではないだろうか。

カントによれば、わたしたちの認識には二つの源泉がある。第一の源泉は、心のうちで像を思い描く=直観する能力、第二の源泉は、その像から対象を認識する能力=概念の自発性である。第一の能力によって対象が与えられ、第二の能力によってこの対象が、心の中の像との関係において思考される。直観と概念という二つの能力。直観をもたない概念だけでも、概念のない直感だけでも、人は認識をすることはできない。(『純粋理性批判』)。

しばし沈思黙考する屋嘉比の中では、直観と概念の往復運動がなされていたのかもしれない。その往復運動を続けることによって理念(理論)にいきつくことを若き仲間へ伝えたかったのだろうか。

《概念に凭れかかるな》という警句と《地道に活動を続ける人々とつながりながら粘り強く思索の歩みを進める》ことが、同系のことがらを別の言葉で現したことであることはいうまでもない。このことは理論と実践(運動)という二元論を思い起こさせる。両者のギリギリのせめぎあいは、沖縄という場において学者(知識人)であることの宿痾である(宿痾を引き受けない者は学者ではない)。屋嘉比は誰よりもそれを自覚していただろう。

崔の追悼文には、屋嘉比からの2010年の年賀状の文面が紹介されている。

「今年は、最近はやりの『現実的対応』という言説に対して、『理想への執念』という言葉の含意をかみしめたいと思っております」。

崔は屋嘉比の『理想への執念』を「理念」という言葉に置き換え、理念なき現実を憂い、理念こそ再発見されるべきだ、いや、するのだ、という屋嘉比の静かで激しい宣言を見事に捉えている。

体調を崩し大学を休学中の屋嘉比と頻繁にやりとりしていた我部は、「我部くん。読んだよ。どうかな?」という電話口での屋嘉比の言葉からその追悼文を始めている。我部が書いた文章について、《先生はすぐに感想を言わずに、少し挑発するような感じで、「どうかな?」と語り始め》、そのような問いかけは一度だけではなかった指摘している。まさに他者への応答力を質す、温厚でかつ厳しい学者からのイニシエーションではないか。

死者は狡猾である。死者はなにも語らないが、生者はそこから不断に負い目を負う。我部と同じように、わたしたちは屋嘉比の「どうかな?」に対し応答していくことを余儀なくされる。その贈与に対するお返しは、強迫観念的であると同時に〈横に開く〉自由で平等な運動としてなされるだろう。

(西脇尚人 2011/01/24)
サイト内検索
カテゴリ
お問い合わせ

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。