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基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ2

ミーティングから

「基地のない沖縄をイメージするワークショップ」を議題に挙げたのは、ようやく12月初旬のOAMのミーティングにおいてであった。議題に挙げたといっても、9月に「基地のない沖縄をイメージするワークショップをやろう」といってからそれまでの間、その言葉以上の具体的中身はなにもなかった。

当然ながら、議論の始まりは活発とはいえなかった。なにしろ発案者自身が議論の材料をなにも用意していないのだから。ミーティング場所として選んだ某ファーストフードチェーン店内で、周りの喧騒とは対照的に我々のテーブル間を重い空気がしばし漂った。

しかしながら、さすがOAMメンバー、手探りしながらも何人かが自分の考えを述べ始め、議論のポイントが徐々にはっきりしていった。その中で私の曖昧模糊とした脳裏をつつく2つの異なる意見があった。

その一つは、基地が無くなった後どのように利用するかを絵に描くというアイデアだった。要するに基地の跡地利用計画を策定するという話だ。それは予想された意見であった。というより、「基地のない沖縄をイメージする」といわれれば、ほとんどの人はそのようなことを思い描くに違いない。

その議論が進むのを横で耳にしながら「そうか!」と手を打った。といっても、その意見に遅まきに賛成したわけではない。それまで自分が曖昧に思っていたのは、そういうことではない、つまり基地の跡地利用計画を描くという類の話ではないということが、そこで明確になったのだ。

私が思い描いていたことは、イメージするという行為自体に積極的な意味づけをすることであった。「基地のない沖縄をイメージする」ことで問題なのは「イメージする」その力があるかないかではないのか、と思い至ったのだ。

私のそのような新しい意見に、メンバーの反応はイマイチ鈍かった。それは無理もないことだと私は発言しながら思った。

「イメージ」という言葉ほど口語でよく使われとても便利な言葉はない。と同時に、つきつめてその意味を問えば曖昧に定義せざるを得ない言葉であることも確かだ。理論的な議論を好む者は、その軽薄さゆえに使うことを避ける傾向にある。

次にもう一つの意見は、ワークショップ参加者のターゲットをどうするかという問題についてであった。基地や政治に関心のない人がいることが問題なのだから、関心のある人たちだけでなく、関心のない人たちを取り込んでいくことに意義がある。でもそれは難しい。どうやって参加してもらうのか?

私自身その問題意識に共感していた。同時にその課題の難しさも避けては通れぬことだと受け留める。しばし議論をしたが、結局その答えはそう容易に出るわけでもなく保留にされた。

議論の後、私は「関心のある人とない人」という市民運動永遠の課題的二元論の出口を探した。運動をしていると必ず陥る袋小路。関心の高い人が集まり運動を始めるが、しばらくするとそれ以上にネットワークが広がらないことに気づく。そもそもの運動の課題は、関心のない人たちが多いことに起因する。関心のない人たちこそ参加するべきなのに・・・

無論出口はそう簡単に見つからない。しかしちょっとしたわき道らしきものに出くわした。それは、このミーティングの議論の前提として、「基地問題に関心のない人」=「基地のない沖縄をイメージできない人」という区分けを、自分も含めて無前提にしていないだろうかという疑問であった。翻ってそれは、二項対立の思考法のなかで「基地問題に関心の高い人」=「基地のない沖縄をイメージできる人」という根拠の薄い見方を導き出してはいないか。

ここで前者の議論に戻れば、イメージする力の問題と、基地問題に関心のあるなしに果たして因果関係があるだろうかという問いが発生する。基地問題に関心のない人たちは基地のない沖縄をイメージする力がない。よってワークショップに参加して欲しい。一方、基地問題に関心が高い人、例えば反対運動をしている人などは基地のない沖縄をイメージする力がある。よってワークショップ参加者のターゲットにはならない。このような議論は成り立つだろうか?

そしてなによりも、かくいう私はどうだろうか?基地のない環境で生まれ育ち「関心もある」私は、基地のない沖縄をイメージする力を持っている?

その問いに答えるには、いったん「基地」から遠くはなれ「イメージする」ことを吟味することをやってみてはどうか。それにはいささか抽象力が必要なのだが。

(西脇尚人)
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