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書評『要石:沖縄と憲法9条』

書評『要石:沖縄と憲法9条』

要石

C・ダグラス・ラミス(著)晶文社(2010/10)
四六判 1,995円

「最低でも県外・国外へ」と公約に掲げて誕生した鳩山民主党政権による在沖米軍基地の普天間「移設」問題が昨年来「迷走」を続け、今年5月の日米合意による辺野古回帰に帰着した経緯は記憶に新しいだろう(ことを願う)。その間、沖縄では、基地に反対する立場の人たちに、大きく分けて2つの態度が存在した。「他の場所へ移設しても平和的な解決にはならない。基地は無条件に撤去すべき」という意見と、民主党の公約同様「県外あるいは国外へ移設すべき」という意見と。両者とも沖縄から「世界で最も危険な」普天間基地(海兵隊)をなくすことでは共通している(普天間基地がなくなっても在沖米軍基地の大部分は残ることを忘れてはならない)。これらの立場は政治的にいうと革新系に当て嵌まる。これに対し、経済振興と見返りに基地を容認する立場を保守系という。

やがて11月の県知事選を迎え、この政治的状況に変化が訪れた。それまで容認の態度をとり続けてきた保守系で現職の仲井真弘多氏が「県外移設」に舵を切り、結果県民多数の支持を得、「県内反対」を訴える「革新系のエース」といわれた元宜野湾市長の伊波洋一氏を破り再選を果たした。選挙戦を通し、仲井真氏の主張には際立って目立つ新しい主張があった。それは「沖縄の基地負担は重過ぎる。日米安保条約を重視し、享受するならば、米軍基地を日本全体で公平に負担すべきだ」という容認派らしからぬ発言であった。それは同時に、「日本人」(沖縄以外のという意味でここでは使う)にとって、できれば見てみぬ振りをしたい刀の先であろう。

本書は、いわば、保守系のリーダーが本音かどうかはともかくそこまでいわざるを得ないまでに変化した沖縄の状況(というか実は日本の状況なのだが)を理論的に同時に感情的に知る上でも絶好の書である。ここでは、括弧で閉じた(日本の状況である)ということに特に留意して読んでいただきたいのだが。

著者によれば、これら2つの態度の前者が反戦平和の原理、後者が、そして変化した仲井真知事が不平等を訴える、もっとあからさまにいえば植民地的差別をはっきりと指摘する原理である。沖縄ではつい最近まで後者をいうことはタブーであった。しかし、今はそのことをはっきりいう人が増えてきたことに著者は注目する(その後の経緯としては、増えてきたどころがそのことを主張する県知事を誕生させた!)。

そのこと、つまり日本人の沖縄差別が計らずも顕わになる意外な瞬間が、日米安保条約を問題視しない護憲論者の態度にこそあることを著者はこれまで指摘し続けている。その「平和を愛する」人たちにとって、憲法九条を守ることと、日米安保条約でアメリカから軍事的に守られていることを容認することは矛盾しないらしい。つまり、沖縄に基地を押しつけていることには目を逸らすか、せいぜい「かわいそうだ」といって一時的に同情するかしかない都合のいい護憲論。

以上のことを指摘するに留まらない政治的理論書としての本書の魅力は、前半の「積極的平和?」で簡潔に示されている。平和学者によって定義される「消極的平和」とは、平和は戦争によってつくられ、軍隊、警察その他の国家権力によって保護される社会状態を指す。一方「積極的平和」は、紛争の原因となっている経済的不正、搾取、あらゆる差別、軍国主義的民族主義が消え、暴力(戦争)が存在しない状態と定義される。前者は非戦状態が例外的に存在し、後者は当たり前に存在する。あるいは、前者は性悪説、後者が性善説に基づくと言い換えれば分かり易いかもしれない。

著者は「消極的平和」を理論づけるホッブスの社会契約説、つまり「正当な暴力の独占」を国家に譲渡することで平和を得る「契約」に説得力があると認めつつもこう述べる。

《逆に、軍隊を完全に廃止するのは、ほとんど難しいことだと思う読者がいるだろう。私もそのひとりである。そこで、この論文において、軍隊とは一体何なのかを改めて検討することによって、「積極的平和」を作る仕事=軍隊をなくす仕事、をもう少し想像可能なものにしたいと思う。》

つまり、軍隊(暴力)がない理想の状態を実現することは口で言うのは簡単だが、実現することは決して容易ではない。まずそれを認めようという。しかし、(ここからが大事なのだが)そこであきらめるのではなく、「軍隊をなくす仕事」という実践を想像することはできるのではないかとギリギリのところで留まる。

冒頭の沖縄の政治状況に照らせば、「基地は無条件に撤去すべき」という意見と、「県外あるいは国外へ移設すべき」という意見において、著者は県外へ、つまりヤマトゥへ移設するのが植民地的差別への抵抗から「常識的な」考え方だと指摘している。しかしながら同時に、理論(理念)としては「軍隊をなくす仕事」は想像可能だという。

著者において、沖縄とヤマトゥをめぐる二項対立は容易に解消されるべきでない歴史的現実がある。それに対する沖縄からの抵抗的アクション、つまり米軍基地は県外へという政治的選択は当然であるとみなす。他方で、軍隊をなくすことは絶望的に難しいが、それを想像することは可能だ(よって実現も夢ではない)という理念は持つべきである。いわば前者は現実的・漸進的運動であり、後者は高く掲げられた理念である。

しかしながら、ここで勘違いしてはならないことは、前者と後者は議論の混乱を防ぐためにいったん切り離されて捉えられているが、実は矛盾するものではないということだ。この両義性を顕在化させることは重要である。

私見では、著者の主張「軍隊とは一体何なのかを改めて検討する」ためには、そもそも軍隊(暴力)を独占する国家とは何かを認識することが必須である。それを考察する上で、沖縄は両義的な場所である。「県外だ」「国外だ」「撤去だ」と愚鈍な選択を迫られる「現実」があり、そのことで理論的考察は日常的に妨害されざるを得ない。同時に、これもまた「日常的に」国家の暴力が顕わにされる例外的な場所として沖縄はあり、国家とはなにかを不断に問い続け、よってそこからのオルタナティブを試行することもまた可能であり、その意味ではまたとない場所だから。

(西脇尚人 2010/12/27)


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