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橋本元首相への「追悼報道批判」を機に沖縄の市民メディアを考える

橋本元首相への「追悼報道批判」を機に沖縄の市民メディアを考える 2006/08/17

沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊氏が地元紙の連載エッセイで、「沖縄族」といわれた橋本元首相の追悼記事で見せた地元2紙の報道姿勢を批判した。これを機に、沖縄市民メディアのあり方を考えたい。



芥川賞作家・目取真俊氏が沖縄タイムスに、エッセイ「地を読む 時を見る」を連載している。その38回(8月2日付)は「違和感覚えた追悼報道」と題し、7月1日に亡くなった橋本元首相への地元2紙の報道姿勢に疑問を投げかけている。

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沖縄タイムス連載中、目取真俊の「地を読む 時を見る」38回。

 以前、沖縄から見た「沖縄族」橋本元首相の死去を書いた私にとって、このエッセイはいくつかの点で興味深い内容であった。それは大手メディアvs(沖縄)地方メディア、(沖縄)地方メディアvs市民メディアといった対照項を私に設定させ、改めて「沖縄の市民メディアとはどういうものか?」という最近の個人的な関心事を再考させる機会になったからだ。

 まずは目取真氏のエッセイの概略を紹介しよう。地元紙2紙(琉球新報沖縄タイムス)の追悼報道が、政治家、財界人、記者の書くコラム、社説に至るまで「沖縄族」橋本氏の功績を讃える記事で溢れていたことに対し、「複雑な利害関係のからむ政界で権力の頂点に上りつめた人物を単純にとらえ、美化しすぎではないか」と疑問を呈する。

 そして最近の沖縄には橋本氏以外の「沖縄族」をも評価する傾向があると指摘し、そもそも「~族」とはその分野の利権に群がる政治家の集団を指していうわけで、「沖縄族」についていえば、公共工事、基地関連の交付金などに食い込み、受注企業と関係を結んで政治献金を得たり、政治的影響力を広げる者のことをいうのであり、礼賛記事のようなキレイ事で済む問題ではないだろう、と続ける。

 その働きによって日本復帰後の社会資本が整備された側面があるにしても、同時に深刻な自然破壊も、もたらされた。さらには、本土資本進出による地域社会の分断、農業、建設業などの従事者にカネをばら撒き、自民党支持者にし、保守政権の安定を図るというやり方は、米軍基地の安定使用に結びついているのではないか、と指摘する。

 よく聞く橋本氏への評価として、普天間基地の「返還」に尽力したことが上げられているが、実際は頭ごなしの県内たらい回しにすぎず、「あくまで米軍基地を沖縄県内に固定化し、安定使用を継続させるということでしかなかった」と、県民にとっての既成事実を述べる。

 最後に、橋本氏の死によって「沖縄族」が消滅したとしても、辺野古V字型巨大基地建設、那覇軍港、キャンプ・キンザーなどの返還跡地再開発、ゲーミング=カジノ導入などなど巨大利権を狙う「新沖縄族」はいるはずだと今後の展開を危惧している。
 以上が、目取真氏のエッセイのまとめである。

 このエッセイと、私の書いた記事(JanJan 沖縄から見た「沖縄族」橋本元首相の死去 2006/07/07)との共通点は、地元紙の報道姿勢への着目、「沖縄族」=振興体制への批判といえようか。違いとしては、前者が追悼報道批判、「沖縄族」の検証の2点が同じ程度のウェイトを占める構成であるのに対し、後者は「あながち、まやかしではない『弱者』沖縄への『思い』があり、さらに新たな利権獲得という功利性が矛盾せずに同居していたようだ」という「思い」=パターナリスムを批判し、その具体的問題としての振興策事業も概説しながら、沖縄と日本、アメリカとの関係の見直し(の可能性)を指摘している。

 沖縄県で読まれている新聞は、大手3紙(朝日・読売・毎日)ではなく、圧倒的に地元2紙だ。これほど大手3紙が読まれないのは沖縄特有の現象かもしれない(ちなみに大手3紙は、沖縄県内では「内地新聞」「本土新聞」などど呼ばれている)。県民にとって影響力を持つ地元メディアに対して、目取真氏は鋭く批判する。

 そしてその自社への批判を、沖縄タイムスは堂々と載せる。比嘉康文氏のJanJan記事、沖縄マスコミは「超理想主義」「大衆頼み」? を読んでいただきたい。担当大臣の地元2紙批判は、裏を返せばそれだけ国家によるメディア・コントロールを拒み、独立性を維持している証拠ともいえる。ここに大手メディアから独立した地方メディアの「色」=差別化がある。

 一方、私が市民メディアで書くことの動機はこうだ。主に本土側からの観光イメージなど、一方的な視線によって捏造された沖縄情報が溢れ、それらが沖縄に対する本土側の一般認識となっている。そのことによって基地問題を根底にした(基地問題だけではない)沖縄の複雑な諸問題の現前性が隠蔽されるという、「無意識の政治性」が存在するのではないか。

 それに対して、沖縄のそうではない「もうひとつの」情報を沖縄から発信したい。そうすることによって、本土側の沖縄認識を少しでも変えていきたい。だから書くときは常に本土と沖縄双方の読者層を意識し、その「あいだ」に立つ。とはいってもこの中間領域は絶えず両サイドに揺れ動き、不安定でもある。「どちらの立場に立つのかはっきりさせろ!」という批判の声も聞こえてきそうだ。

 インターネット新聞の「中心」はどこにあるのだろう? JanJanでいえば、東京の編集部、ととりあえずいえそうだ。東京が中心ならば、情報量の少ない地域の情報、大手メディアでも扱われ難いこれらの情報は、それなりに「おいしい」ネタになり得る。この観点でいえば、独立性の濃い沖縄2紙の記事をそのままリンクするだけでもこと足りるのでは? 本土側からの一方的でない情報を発信したい私としてもそんな気がしてくる。そしてそれら「周縁」、または「枝葉」だった地方記事は内容がおもしろければトップを飾ることもできるのだから、他の記事と同等の扱いを受けることもありえるのだし。

 だが市民メディアはそれだけでよいはずがない。「もうひとつの」情報とは、もっともっとオモシロイはず。前述の目取真氏のエッセイと拙記事を読み比べて思ったことは、独立性ということで地方紙と共通しているが、ローカル的でありながら、なおかつ、市民記者ひとりひとり個別の視点で、誰に向けてなのかを意識して書く、という強度の度合いが大切ではないか、ということだ。

 「沖縄」でありながら「沖縄」でない、といいかえてもよいか。ローカリティーに立脚し、同時に対象=ネタの沖縄を括弧で括り、吟味し、そして最後に括弧を外す。沖縄で生活するヤマトンチュー(日本人)という立場で沖縄について書くことに、もし何か意味があるとすれば、それはこのような技術によって可能なのかもしれない。そんなことを考えさせてくれた今回の追悼記事批判であった。


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