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沖縄マンガは越境する 男女も地方も国家も

沖縄マンガは越境する 男女も地方も国家も 2008/03/10

マンガは「性」「国家」「ジェンダー」、あるいは「中央」と「地方」の関係を超えると考える「マンガは越境する」というシンポジウムが沖縄で開かれた。『沖縄コミックチャンプルー』のメンバーを中心に、マンガというメディアの可能性が様々な角度から討論され、「望郷するマンガ」論も飛び出した。



目 次
(P.1)ウェブ版マンガ『沖縄コミックチャンプルー』
(P.2)漫画家の自己規制でほのぼの路線?
(P.3)静止した故郷描く「望郷するマンガ」

 「マンガは越境する」というユニークなシンポジウムが日本マンガ学会九州交流部会主催により3月8日、沖縄キリスト教学院大学で開かれた。越境するのは「国家」「ジェンダー」、あるいは「中央」と「地方」の関係性であり、その可能性を持つマンガというメディアを様々な角度から討論したいとして企画された。

◆ウェブ版マンガ『沖縄コミックチャンプルー』

 『沖縄コミックチャンプルー』は沖縄をテーマにしたコミックマンガのウェブ版として、昨年8月に創刊された。現在約20名の漫画家が参加し、毎週金曜日に新作がアップされる。

 編集長の島袋直子さんは、80年代後半に出版された『コミックおきなわ』の編集長を務めた経験がある。それに比べて「ウェブ版は低予算でできるということと、世界に越境できる」と利点を語った。

 この日の「編集会議」では、島袋編集長を含めた漫画家が集まり、ふだんあまり耳にすることのない現場の声を聞くことができた。島袋さんは『沖縄コミックチャンプルー』を立ち上げたことによる発見として、「歴史や文化としての沖縄の捉え方もあるが、アイテムとしての沖縄もアリではないか、ということが分かってきた」という。「例えば日常生活を描く時に沖縄っぽさが出ていない場合、サーターアンダギーを入れてみると、いかにも沖縄ということを連想させることができる」。

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コミックチャンプルー編集会議。右端の島袋直子編集長は金田一耕助のコスプレで登場。

 大城美千恵さんは「台詞回しに『~さー』などを使ったり、ファンタジー系の作品としてキジムナーを使ったりして表現しています」と、沖縄を表現するために意識していることを挙げた。喜名朝飛さんは「門にシーサーがいたりだとか、後ろの方でエイサーをしている子供がいるなどで表現しています」と語った。

◆漫画家の自己規制でほのぼの路線?

 司会を務めた本浜秀彦・沖縄キリスト教学院大学准教授との質疑が興味深かった。本浜さんによると、『コミックおきなわ』では米軍への怒りや観光客への風刺があったが、少女暴行事件があった1995年を境に、沖縄を巡る表象に「癒しの島」というテーマが増えてきた。その意味で『コミックチャンプルー』のほのぼの路線が気になる。漫画家自身が自己規制しているのではないか?

 この問いかけに大城美千恵さんは「米軍問題などを描いた場合、各方面からの攻撃が怖い。規制をかけている」と正直に答えた。南原明美さんも「たとえ一部にでも不快感を与えた場合を考えると、あまりつっこんだことは描けない」と同意見。

 本浜さんは「それでは越境していないのでは?」と疑義を述べた後、琉球新報に連載中のももココロ作『がじゅまるファミリー』に触れ、「家族がみな仲良くほのぼのとしているが、その中で沖縄の家族の様々な問題を挟むことはあるのか?」と尋ねた。

 ももココロさんは「基本はやさしさを描いているが、その奥に秘められた苦しさ、歯痒さがあり、でもそこで立ち止まってはいけないということで描いている。教科書検定問題などにも触れながら、漫画家が結論付けるのではなく、『ちょっとそこで考えてみませんか?』という提示をしている。空を見上げれば鳥だけでなく軍用機が飛んでいる。沖縄の漫画家はそこから逃げられない」と答えた。

 これを聞いていた『沖縄決戦』など沖縄戦に関する作品を描いた新里堅進さんは、「タブーに負けず、どんどん描いてほしい」と若手漫画家へ熱いエールを送った。

◆静止した故郷描く「望郷するマンガ」

 後半のパネルディスカッションでは、日本マンガ学会九州交流部会代表の大城房美さんが、「国境」を越えるメディアとしての少女マンガについて語った。大城さんによると、かつてその無国籍的内容と外観を批判された少女マンガは、現在では少年中心の海外のコミックス文化に影響を与えているという。

 筑紫女学園大学の一木順さんは「望郷するマンガ」と題し、長谷川法世作『博多っ子純情』(1976-83年)を題材に論じた。博多出身の長谷川が東京で描いたこの作品には、「(作者自身)自分の中で造り上げた博多」が描かれているという。「その時代背景としての1970年代とは、故郷としての地方が重要な時代であり、その媒体としてマンガがあった」と一木さんは指摘する。

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「望郷するマンガ」を論じた 一木順さん

 さらに一木さんは、同作品が連載8年間を通し、静止した博多の風景の同じカットが使われていることに注目し、「リアルタイムで変化する博多より、自分の中で造り上げた静止した博多が長谷川にとって重要だったのでは」と推測した。

 その根拠ともいえるのが、故郷を語る、あるいは描く上での「ズレ」の問題だ。「故郷が意識されるようになったのは、たかだか100年前、近代に入ってからのこと。故郷とは、移動した場所から見返す、眼差されるところであり、自分の中の記憶を再構築することである」と一木さんは結論付ける。

 一木さんの分析は近代の国民国家の成立と関連していて重要な問題だ。沖縄の現代の漫画家がアイテムとして沖縄らしさを使うという議論が一方である。では一木さんの問題提起をその沖縄のマンガ=文化状況に設定して議論したら、いや、すべきではないか、と強く感じた。それは本浜さんが指摘したような現実を覆い隠す文化=政治状況が沖縄にあるからだ。

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