twitter @oam0

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「陸の孤島」を支えた共同店100周年

「陸の孤島」を支えた共同店100周年
オーマイニュース掲載 2006-10-18


image013.jpg
100周年を迎えた奥共同店

 沖縄本島最北端に位置し、かつては「陸の孤島」と呼ばれた国頭村奥区だが、今では道路が整備され、車なら那覇から高速道路を利用して3時間弱で行ける。その便利さとは裏腹に、100年前には約800人いた人口が終戦後に約1300人とピークを迎えたあと減少傾向をたどり、今は約190人と過疎化が進んでいる。

 ここで10月7日に「奥共同店創立100周年 記念式典及び記念祝賀会」(主催・奥共同店100周年記念事業実行委員会)が開かれ、奥区住民や郷友会など約600人が集まり、100年の歴史を盛大に祝った。

 共同店(共同売店ともいう)とは北部の国道沿いなどでよく見かける日常雑貨を扱う商店をいう。100年続いたとはいえ単なる商店がこれだけ盛大なお祝いをするとは大げさすぎないか? そんな疑問も共同店第1号である奥共同店の歴史を振り返れば自ずと解ける。

 奥区で雑貨商を営んでいた糸満盛邦氏が1906年に村の発展のためにと私財を投げ打って共同店を設立、那覇などから物資を運ぶために必要な「やんばる船」を購入、さらに区住民の共同出資による株主制として共同事業の形態をとった。地域自立の要として機能していたようだ。

 奥共同店が区の繁栄に果たした事業をざっと紹介しよう。納税(区の予算から一括して支払われるので未払いがなく、かつて「無税の村」と評判になったことがあるほどだ)や株主配当、区会計並びに各種団体への補助、医療、運送業、茶業、精米所、製材所、発電所、酒造会社、貸付事業などなど事業を幅広く展開していたのだ。単なる「商店」の範囲を超えている。今も残っている茶業は「奥といえばお茶」と言われるほど区の主要産業として定着している。

 同形態の共同店は最北端の奥から南下し、沖縄本島や周辺の離島、宮古・八重山諸島にまで広がった。1980年頃には100店以上あったが、道路整備による交通の発達や大型スーパー・コンビニの進出などが影響して減少し、現在では沖縄本島北部を中心に約70店が営業を続けている。

 思わぬ波及効果がある。奥共同店の事業を参考に宮城県丸森町大張に「なんでもや」という店が2003年12月に開店したのだ。それまであった2つの店が閉店したためお年寄りが多い過疎の村として困っていたところ、奥共同店を真似して住民から出資を募り、見事開店にこぎつけた。以来宮城産の新米が奥共同店で販売されたり、「なんでもや」に沖縄物産コーナーができるなど、協力関係を築くことができた。

沖縄県内に現存する70店の経営はいずれも苦しい。しかし、移動手段である車を持たないお年寄りや子供などにとってはなくてはならない存在であり、その使命感から各主任の並々ならぬ努力で存続しているのが実情だ。ちなみに主任とは区から共同店経営を任される人のことで、区の選挙で選ばれ、任期は2年という制度が多い。

image014.jpg
壇上で元気に踊る90歳を超えるお年寄りたち

祝賀会で奥共同店の第31代主任を務める糸満盛也さん(創設者の子孫)は「オクンチュ(奥の住民)が元気になることが自ずと共同店の発展につながる」と力強く式辞を述べた。糸満さんは主任就任後、茶業組合長を兼任するほかエコツーリズムの活動にも携わり、地域活性化に尽力している。

 祝賀会の最後には90代のお年寄りが前列に並び、全員でカチャーシーを踊って幕を閉じた。そんな光景を見ていたところ、隣の40代の男性から感想を聞かれた。一見してヤマトンチュ(日本人)と分かる私のようなヨソ者に、地元の催しがどのように映るのか関心があるようだ。「舞台の上も下も分け隔てなく楽しんでいるところが素晴らしいですね」と答えると、生まれも育ちも奥だという彼はそうだろうといわんばかりに笑みを漏らした。自分の生まれシマ(地元)の、しかも区単位で共同店のような独自の文化を持ち、それを誇りにできる。彼の笑顔がまぶしく見えた。


スポンサーサイト

ネットビジネスの成功例を探る

ネットビジネスの成功例を探る
沖縄若手起業家・連続インタビュー第4回
オーマイニュース掲載 2006-10-09


image012.jpg
自宅オフィスで作業中の寺田さん

 COLORSスタッフ・インタビューの4回目は寺田義明さん(28歳)を紹介しよう。大阪出身の寺田さんは沖縄へ移住してまだ4カ月しか経っていない。大阪時代からインターネットショップで自転車を販売している。昨年9月に始めたのでちょうど1年経過したことになるが、現在では月に150台の売り上げがあり、好調をキープしているという。

 経営の特徴はドロップ・シッピング、つまり在庫を持たず、顧客からの受注後メーカーに伝えて発送するというスタイルにある。大阪にいようが沖縄にいようが関係ないわけだ。

 この仕事を始めた動機は、LOHASブームの到来で自転車のブランド志向が出てくるのではないかという見込みがあったからだ。そしてその見込みは見事に当たった。

 もうひとつ成功の秘訣として挙げられるのは、ヤフー検索エンジンのトップにいかに載せられるかというSEO対策がしっかりできていたからである。これが決定的だという。そして自転車メーカーとの交渉がスムーズに運んだことも大きい。

 これ以前も寺田さんはネットビジネスを1年ほどしていた。その時はショッピングモールに加入して、売れ行きの良い美容関連商品を販売していたが、結局広告を出さないと集客に結びつかないことに気付き、自社を立ち上げる決心をした。

 そんな寺田さんはさらに向上を目指し、mixiコミュニティ「沖縄起業家コミュ☆起業しよう!」に参加した。自分にない知識や経験を持つ人たちとのネットワーク作りが大事だと思ったからだ。「COLORSは認知度が上がってきたので、ようやくこれからおもしろくなってくるのでは。県外の帽子デザイナーとのコラボや県内の絵描きさんとのコラボなど具体的な計画があります。これができるとリアル店舗だけでなく、ネットショップでもパンチのある展開になるはずですよ」と今後を語る。

 実は寺田さんはもうひとつ新たなビジネス展開を考えている。沖縄に引っ越して来たのはそれが目的でもある。

 以前沖縄へ観光で来た時には、せっかく来た割には遊び方が分からなかった。結局お金がかかる従来の観光旅行のパターンをするだけだった。しかしそれを単なる過去の経験で終わらせないところが寺田さんの非凡なところなのだ。その後「自分ならもっと他の遊び方を提供できるのに……」。寺田さんはひらめいた。

 サーファーなどの若者で賑わう北谷町砂辺でリアル店舗の運営を計画中だ。バギーやサーフボード、シーカヤック、釣具、外でも寝泊まりできるパッケージ品などのレンタルショップがその中身である。「ハッチャケ案内人」と寺田さんの名詞には書かれている。「ハッチャケは『ハジケちゃった』という意味で、そんな風に遊んで欲しいという思いを込めています」

 ネットショップで一定の成功を収めた寺田さんが、土地勘のない沖縄で準備を進めるリアルショップ。沖縄には固有の文化や風俗、歴史がある。例えば県外の人間が県内で部屋を借りる時には保証人が県民であるほうが歓迎される。バーチャルではない、このような生の現実に寺田さんもぶち当たるだろう。これから予想されるさまざまな課題に直面した時にこそ、mixiで繋がったさまざまな人の縁が最大限の力になりうる。

沖縄にUターンしたIT技術者

沖縄UターンしたIT技術者
沖縄若手起業家・連続インタビュー第3回
オーマイニュース掲載 2006-10-02


image011.jpg
COLORSで店に立つ新垣さん

COLORSスタッフ・インタビューの3回目は新垣大善さん(35歳)だ。主に音楽関連の携帯サイトに懸賞、占いなどの広告を載せるアフィリエイターで、キャリアは1年半になる。音楽情報のメルマガ・ユーザーが3万人弱いるという。1日当たり1万弱のページビューを稼ぐなど順調な運営をしている。

 中央大理工学部を卒業後、半導体専門商社に就職し、開発やシステム管理を担当する。その後職場を変え、ATM交換事業のサポート業務やインターネット機器の技術提供、パートナー会社のサポート・教育など、いくつかの職を経験する。その間年収が900万円に至ったこともあるという。

 時代の先端を担う職業を渡り歩いてきた新垣さんだが、その仕事の忙しさやキツサに耐えられなくなり2003年沖縄に帰省した。情報管理の会社で勤務する間にアフィリエイトの仕事をプチ起業し、1年後に独立を果たした。起業にあたり会社組織にすることを考え、ハローワークの起業家育成講座などに参加した。しかし参加者の多くは、新垣さんのように起業に向けて具体的な一歩を踏み出している人はほとんどいなかった。話が合わず、得るものが少なかったという。それに比べてmixiコミュニティ「沖縄起業家コミュ☆起業しよう!」には同じような悩みを抱える人たちが大勢集まっており、新垣さんが求めていた場があった。

 そんな新垣さんは実際に動き出したCOLORSをどう見ているのか? 「私個人としては、少し急ぎすぎたかな、という気がしています。まだまだプランに甘いところがあり、評判に釣り合わない面もあります」と、さすがに冷静な見方をしている。

  「今後の課題としては、オリジナル商品の開発、お客様とのコミュニケーション、この2点を挙げます。店内のパソコン画面で生地やロゴなどを選んでいただくことができれば、お客様もイメージがわきやすいでしょう。『その店に行けばおもしろい!』と思わせることがポイントです」と具体的なプランを早く実行させたいようだ。

 本土で成功を収めたといってよい新垣さんはいわゆるUターン組だ。沖縄での起業の可能性についてどう考えているのだろう。「沖縄の失業率は深刻ですが、失業している人は親に面倒を見てもらっている人もいて、ナアナア、甘ったれの構造があるのは事実です。同時に、企業に就職して社会人になったとしても内地と同じレベルで稼ぐことは難しいのも事実。起業するなら、リアル店舗よりもネット環境を生かして何かを始めることをお勧めします」という見解が返ってきた。

 新垣さんも触れていたことだが、沖縄の観光業はインターネット利用でまだまだやれることがあるように思える。ネット上に「地域格差」は基本的にないのだから。そこへ新垣さんのようにスキルを持った技術者と、異分野で能力を持つ人たちが繋がり、一つの目標・目的に向かって事業を進めることにはこれまでにない可能性を感じさせる。今回はその繋ぎ役をmixiコミュがやってしまったわけだが。

外に出て、自分を見つめ直し、経験を生かす

外に出て、自分を見つめ直し、経験を生かす
沖縄若手起業家・連続インタビュー第1回
オーマイニュース掲載 2006-09-22


image009.jpg
自宅オフィスでの仕事風景

SNSサイトmixiで集まった若手起業家9人が、LLPという新しいコラボレーション型事業体で帽子店をオープンさせたニュースをお伝えした(「仕事がなければたちあげようぜ!」)。起業までの経緯を中心とした内容だったが、私の興味は尽きなかった。そこに集まったメンバー1人ひとりの声が聞きたい。その職業観やライフスタイルを表現したい。それらを聞いて「沖縄で若者が起業する可能性」について、少しでも情報を提供したい。そんな思いが強くなった。そこで再取材を申し込んだところ、COLORSメンバー6人全員から承諾の返事をいただいた。感謝したい。

 前回に引き続き広報・経理を担当する友利真由美さん(30歳)をご紹介する。オープン以来私の取材以外にも地元メディアの取材が殺到した。その対応に追われ、めまぐるしい日々を送ってきた。

 宜野湾市出身の友利真由美さんの本業はファイナンシャル・プランナーだ。今年5月に独立したばかりの「お金のホームドクターです」。「税金、年金、保険、給与明細の仕組みなど、実はよく分かっていない人が多い。自分もかつてそうだったが、調べてみていかに損をしているかが分かった。だからそういう人たちに分かって欲しい」と動機を語る。

 経歴を短く紹介しよう。大学卒業後本土で就職、1年後沖縄に戻った。3年間官公庁で事務職を経験、その後2年間は大手不動産会社で営業職を務める。インターバルを挟み、地元の建設会社で働いた。不動産会社に勤めていたとき友人や知人から不動産についてのアドヴァイスを求められることが多かった。「相談業務ができればいいのに」と気付いたことが、ファイナンシャル・プランナーという現在の仕事へ結びつく。

 そんな友利さん、mixiのコミュニティ「沖縄起業家コミュ☆起業しよう!」で集まった面々を見て、とても可能性を感じたという。「モチベーションが皆同じレベルで、自営業者同士なのでなにかと融通が利くことが利点だと思いました」

 その後実際にオープンしてどう思っているのだろうか。「あらゆる点でまだまだです。だから逆に工夫し甲斐がある。こんなに楽しみながら仕事をしていいのだろうか?と思ったりします」とプラス思考だ。「みんなそれぞれ目的が違うはず。私は前から独学していたマーケティング理論を実際に試せる場として利用させてもらっています(笑)」としっかり者の一面を垣間見せる。

 沖縄での起業の可能性についてどう思うか? 「埋もれている優秀な人材が多いはず。でもそういう人たちは可能性のある県外へ目が向きがちなのは事実。いったん県外での経験をして、その後Uターンしてその経験を活かしつつ、沖縄の中でもネットワークを作って情報交換していけばいいのに。沖縄は現在二極化していると思います。いったん県外へ出て経験を積んで戻ってきて起業する人。一度も外へ出ることなく、親からの援助など甘やかされた環境で起業する人。結果は見えてますよね」。結婚して独り立ちした長男に、嫁には内緒で小遣いを与える親がいるという。長男尊重で身内に甘い慣習だ。

 沖縄の企業は大部分が零細中小企業で占められる。その中身はサービス業偏重という特徴がある。起業率が高ければ廃業率もまた高い。新しい食堂ができたなと思ったら半年も持たずにシャッターが閉まる。その同じ店舗にまた新たにそば屋ができる。街角でよく見かける光景だ。「○○、最近見かけないがどうした?」「居酒屋をオープンさせたけどうまくいかず、資金も使い果たしたってば。今頃内地に出稼ぎに行っているはず」。そんな会話を聞いたことがある。

 友利さんのものの見方には趣味のバックパック旅行の豊富な体験が影響を与えている。「海外に行くと必ず尋ねられます。『あなたの宗教は何? あなたの国の文化について教えてほしい』と。さまざまな価値観を持つ人々と言葉を交わし、自分の国について何も知らない自分を発見しました。外から日本を見ること、外から沖縄を見ることは、自分自身を見つめることにもなるのです。だから日本人には海外へもっと目を向けて欲しいし、沖縄の人には一度は内地へ出てみることをお勧めします」

 異業種からのバラバラな集まりの共同経営という中で、友利さんの客観的視点は貴重な財産になるのではないだろうか。そしてそれは沖縄で起業する上でも一つのヒントとなるに違いない。

沖縄マグロレポート

沖縄マグロレポート
オーマイニュース掲載 2006-09-09


image6.jpg
水揚げされたばかりのマグロ

 沖縄の水産物の代表的なものを挙げろといわれて、あなたなら何と答えるだろう? 「モズク?」 それとも観光で訪れたことがあれば「海ブドウ」と答えるかもしれない。あるいはあなたがリピーターだったら「沖縄の県魚グルクン」と答えられるかもしれない。いやいやいや、これからは思い切りよく「マグロ!」と答えていただきたい。

 今回取材に応じていただいた沖縄県近海鮪漁業協同組合参事・新垣章さんによると、マグロは「沖縄県の水産物総生産の40%以上を占める」一番の産品だそうだ。その主な理由は、「県一円で、しかも周年獲れること」にある。

 だが、なんといっても一番の特徴は、「生」で陸揚げ、流通される点だ。9月7日早朝、那覇市港町の沖縄県漁業協同組合連合会地方卸売市場へと取材に行って確かめてきた。そこには陸揚げされたばかりの「生」のマグロたちが、漁師たちによって整然と並べられていた。白色トレイの上で均等にカットされた肉片ではない魚そのものを確かに確認することができた。こういう現場は一度は見ておくべきだろう。

 日本でマグロといえばいわゆる「マグロ船」で数カ月の遠洋漁業に出る、というイメージがある。それらは水揚げされた後、血抜きをされ、超低温で急速冷凍された状態で運ばれる。もちろんすべてのマグロがそうだというわけではないが、スーパーで買ったマグロが水っぽいのが、解凍時に出るドリップが原因であるならば、沖縄のマグロにはその水っぽさがないわけだ。

 戦後の沖縄は陸上開発、埋め立てにより沿岸部が急激に減少した。地先で生活できなくなった漁業者は漁場を求め、パヤオ(浮魚礁)など沿岸漁業で県一円を取り囲むようになった。そして、さらに範囲を拡げたのが近海漁業と呼ばれるものだ。マグロ漁はこの沿岸、近海マグロ漁を範囲とする。

image7.jpg
キハダマグロ。長さは1メートル弱か

 そんな沖縄のマグロ漁も様々な問題を抱えている。エルニーニョ現象による海水温の上昇、国の資源保護政策による漁獲量削減、台湾を中心とした無秩序な違法操業。そして最近ではイラク戦争による原油価格高騰を受けての操業コスト高。しかし輸入品の増加などで市場のマグロ価格の安値傾向が続き、販売価格への転嫁は難しい。

 後継者不足も深刻だ。県内の水産高校卒業生も、楽ではない仕事に根を上げ定着しないという。インドネシアからの研修生を受け入れてはいるが、これはあくまで国際交流における研修制度の範囲内だ。

 「県の取り扱い数量が1万3000トン、取り扱い金額が50億円。現在、ビール会社との提携により、県内で当該のビール購入時にマグロレシピを差し上げるキャンペーンを実施しています。また、今後は県の特産品として10月10日「トトの日」(魚の日)などで、イメージアップ作戦を展開していきます。海外に目を向ければ、中国、台湾など、マグロの消費が伸びていることは大きなメリットといえます」とポジティブな姿勢を崩さない新垣さん。新しい沖縄のブランド誕生なるか!


サイト内検索
カテゴリ
お問い合わせ

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。