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基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ10

基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ10

照屋勇賢の作品「Color the World」が中学校美術の教科書に掲載されるというニュースが先日地元紙で報道された。

照屋勇賢さん(県出身NY在)作品採用 中学2、3年美術教科書
琉球新報3月31日付
平和願う作品 教科書に 県出身・照屋さん
沖縄タイムス4月1日付

この作品は2001年の9・11米国同時多発テロ直後、アメリカ中が国旗をたなびかせている光景を目にした照屋が、アメリカが愛国主義で一つにまとまり勇敢さを感じると同時に、アメリカ人ではない照屋にとっては疎外感を感じさせるものであったと感じ、そのインパクトから創作された。

Color The World

「Color the World」では、一つの旗の上に世界196カ国・地域の旗が地政学通りに配置され、地球上の国が大家族となっていることがみてとれる。沖縄タイムスの記事によると、「旗は国を一つにするが、ほかの国との距離を広げる側面もある」と照屋は述べている。「For the World to Come」同様、照屋がモチーフから両義性を感知している点に注意したい。

国旗とは国家の証明書である。国家とは暴力を合法的に行使しうる機関をいう。国家とは常に他の国家に対して国家である。国家と国家は潜在的に敵対関係にある。そこに国境が生ずる。

「Color the World」は各国旗が「平等に」配置され、一つのデザインとしてみえる。それは国家の連合にも見えれば、国家が廃棄されているようにもみえる。

しかしながら、それは一つの旗としてある。旗という物質は国家をいまだ連想させる。旗とは風にたなびいて初めて存在理由が生じる物質である。よってそれは絶えず風にたなびこうとする運動とともにある。

ひとつの旗という枠の内側で、国家の連合、あるいは国家の廃棄が蔵される。しかしながら、同時にそれは未だ国家を連想させる旗であり、しかもその旗は不安定かつ受動的にたなびくことを余儀なくされる。そもそも「平等な国家の配置」などありえるのかという疑問とともに、イメージの混交に幻惑させられる。

そしてその幻惑は次の瞬間、この旗の外側を想像させずにはおかない。ここでもわれわれは、この世界のありえない外側を考える。ありえない外側とは、国家の連合=国家の廃棄という旗の内側に蔵された可能性である。それは窓の外の雪を薄着で笑うようになされるだろう。


(西脇尚人)

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基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ9

基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ9

〈空がある〉のように最も当たり前のことを疑うこと、嘘か本当か分からない別の非現実的な空間を作ること、この世界のありえない外側を考えること、そして枠の外に書いてあることと中身をすり替える、ずらすことに気づき始めたわれわれは、アーティスト・照屋勇賢の企みを楽しむことができよう。

“For the World to Come”と題された照屋の作品は、2004年に起きた沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件に関わる。このとき米軍は事故現場、つまり沖国大を完全にシャットアウトし、大学関係者はもとより、宜野湾市長、県知事、県警、報道陣、そして日本政府さえも蚊帳の外に置かれた。沖縄の人々にとって、沖縄が依然として米軍統治下にあることを棍棒で後頭部を叩きつけられるように気づかされる瞬間であった。
For the World to Come

これに対し、照屋はこうコメントしている。

日本の警察あるいは政府さえ学内に入ることを禁じられる一方で、宅配ピザ屋だけは易々と中に入ることができた。
新聞記事を読んだ私は、しばらく空いた口がふさがらなかったが、同時にピザの箱が通用口の中と外をコミュニケートするメディアになりえるということに希望を見出した。
(西脇訳)


照屋はピザの箱の内側に墜落事件についての絵を描いてもらうワークショップを開催し、宜野湾市長を含む100人以上が参加し、その箱たちを展示した。

照屋がピザボックスという箱=〈内と外〉をモチーフに選んだこと、ピザボックスの外にある沖国大墜落現場をボックスの中にすり替えたこと、その絵は学内に入れなかった市長を始め沖縄の人々がワークショップで描いたものであること。そのワークショップは「ぼくらは薄着で笑っちゃう」リアルな非現実を喚起‐歓喜させる世界であったに違いない。

(西脇尚人)

(関連サイト):
yukenteruyastudio.com

基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ8

「基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ6」では、ビートルズの“All You Need Is Love”は「自分たちでできると思っていることは、あらかじめ決められたことしかできない」とギリギリのかなりヤバイ状況をひたすら説いた絶望に近いラブソングだとする岡崎乾二郎の解釈を紹介した。「基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ7」では、曲の終わりにリフレインでフェイドしていくところに重ねられるポール・マッカートニーのボーカルShe loves you, yeah, yeah, yeahをRCサクセションの「君はそのうち死ぬだろう」ライブバージョンが模倣していることを指摘した。そしてこの曲はノイローゼ気味で今にも死にそうな友人を励まそうという動機から忌野清志郎が作ったというエピソードをつけ加えた。

両者に共通するのは反語的であるということだ。前者では、世界に絶望をみる曲に、嫌われたと思っていた彼女が君のことを好きなのだと「間接的に」聞かされる過去の代表曲がリフレインされながら挿入される。後者では、ノイローゼ気味の友人を励ますために「君はそのうち死ぬだろう」としつこく繰り返す曲に、「彼女は君を好きなんだよ」のリフレインが模倣して挿入される。

一言でいえば、清志郎はジョン・レノンの「愛こそはすべて」という博愛主義とみなされているが実は絶望的なラブソングを、「君はそのうち死ぬだろう」という絶望的な表現方法のラブソングとして正しく解釈しているのだ。

ここで反語的について岡崎が語っている部分を引用する。

つまり、〈空がある〉のように最も当たり前のことを疑うということは、「場面」を作るということとつながります。場面を作るということは、嘘か本当か分からない、別の非現実的な空間を作るということ。ジョン・レノンがいっているのは、一番当たり前だと思っていることが実はunrealであるということ、外側がない世界ということ。

ここでウィトゲンシュタインが仄めかしていることは、それがもし成り立つとしたら、その見たこともない外の世界を前提にしなければ本当のことはいえないということです。しかし前提にできない。倫理学というのは、この世界のありえない外側を考えることに他ならないということです。最も当たり前なことを〈夢かもしれない〉ということは、その夢の外の世界を考えるということです。

詩を書く、絵を描くなどは、詩を書くならスタンザなどの形式があるように、閉じた枠を作ることだが、それはその中に好きな世界を作るということではない。そこで一番おもしろいことが起こるのは、枠の外に書いてあることと中身をすり替える、ずらすことができるということだ。文章であればそれは語尾に現される。「~た。」で終るのか「~だそうな。」で終わるのかによって、中身(商品)の扱い方が変わってくる。

岡崎乾二郎 清志郎を語る!

反語は曲の終わりに遠慮がちにかつしつこく挿入される。それはありえない枠の外の世界を想像することに他ならない。この手法の効果と恐さを知ってしまった清志郎は、隠れた小曲の中で目立たぬようにこの手法を採用している。




窓の外は雪

  あーあ とうとう裸にされちゃったなんて
  言いながら
  あの娘が起き上がる朝
  窓の外は雪

  ぼくの耳もとで好きだなんて
  ささやいて
  あの娘といっしょの朝
  窓の外は雪

  寒いから 寒いから
  あの娘抱きしめる
  とてもあったかいのさ
  窓の外は雪
  窓の外は雪
  窓の外は雪・・・
  (ぼくらは薄着で笑っちゃう・・・)


窓の外は雪であるという当たり前の現実に対して「ぼくらは薄着で笑っちゃう」。このシュールな「ぼくら」は現実の外にいるとまずは想起させられる。ところが次の瞬間、外側=雪=現実、内側=部屋=薄着で笑っている=非現実という構造自体が逆転させられる。どちらが現実で、どちらが非現実なのか?それはマチスの『金魚』の世界に似ている。

時が経過し、清志郎は「イマジン」に日本語詞をつけるときに「ぼくらは薄着で笑っちゃう」を挿入することを忘れない。われわれが曲を聞くたびに馴染むことを拒否されるこの部分こそ、清志郎にとっては納得のいく手法であっただろう。



「基地のない沖縄をイメージするワークショップ」は、「ぼくらは薄着で笑っちゃう」リアルな=非現実の世界を想像することであることがようやく判明した。

(西脇尚人)

基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ7

曲のフェイドアウトでShe loves you, yeah, yeah, yeahを挿入している曲が実はまだある。それはかろうじて奇跡的に録音された。

RCサクセション
君はそのうち死ぬだろう

RCサクセションの「君はそのうち死ぬだろう」について、ファンの間では常識的なその伝記的事実も、あるいはなかばお蔵入りしたような曲をあえて復活させて演奏した1986年の背景についてもここでは触れない。ただ、ノイローゼ気味で今にも死にそうな友人を励まそうという動機から作ったといわれるエピソードだけは記しておく。

All You Need Is Loveのエンディングと重ねて聴いてみてほしい。

このYouTubeファイルでは2曲目。



基地のない沖縄をイメージするWSのためのメモ6

「非現実的」ということでいえば、Nowhere Man ほど「非現実的」な男はいない。なんといっても、彼は「リアルにどこにもいない男」であり、「どこにもありえない計画を誰のためでもなくたてている」ほどなのだから。



All You Need Is Love ではThere's nothing you can do that can't be don「自分たちでできると思っていることは、あらかじめ決められたことしかできない」とギリギリのかなりヤバイ状況をひたすら説いている。そして最後にかろうじて、残されたのは愛しかない=愛はその程度であるという絶望に近いラブソングなのだ。



それにしても、最後のAll You Need Is Loveのリフレインでフェイドしていくところに、She loves you, yeah, yeah, yeahとポールが能天気に歌い出す、この唐突な挿入の仕方はなんだろう?She loves youは、嫌われてしまったと思い込んでいたが、彼女は君のことを好きなのだと間接的に告げられる曲である。

曲のフェイドアウトでShe loves you, yeah, yeah, yeahを挿入している曲が実はまだある。

(西脇尚人)
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